リタイアして、都内を散歩して、ブログ日記を
東武東上線「下板橋駅」から
JR赤羽線「板橋駅」
を抜けると
突然の雨が降り出しました
濡れたまま、近藤勇さんの墓を見ました
なんだか、近藤勇さんの無念さが
伝わってくるようです
周囲に、手入れのよい花が咲いています
救われる思いです
雨の中
ご婦人の方が、素手でお墓を手入れをしていました
そして、バッグを持って
”おじゃましました すみませんでした ”
と、深く、礼をして、去りました
この地は、
JR赤羽線「板橋駅」東口 その向かいです
雨が降っています
泣いているようです
ここは、北区です
駅の向こう、西口が、板橋区板橋1丁目です
左「下板橋駅」は、豊島区です
三つの区の境界にある 近藤勇のお墓
静寂としています
花が、迎えてくれます
北区にありますが、
板橋区の名所・旧跡となっています
新撰組局長として幕末に活躍した近藤 勇は、
慶応4年(1868年)板橋刑場で処刑されました。
函館で戦死した土方歳三をはじめ新撰組隊士と
共に墓が建てられています。
北区の観光スポットより
新選組隊長・近藤勇は、慶応4年4月25日に
板橋平尾宿にあった一里塚で斬首の刑を受け、
首は京都三条河原にさらされ、
胴は滝野川三軒家の無縁塚に埋葬されました。
墓碑は近藤勇、土方歳三のほか殉死した隊士の供養のために、
新選組隊士・永倉新八が発起人となり、
旧幕府典医松本順の協力を得て明治9年に建てられたものです。
処刑された場所が板橋区
埋葬された場所が北区
長倉新八さんの墓
近藤勇さんの右腕として
新撰組で活躍したが、
その後、何度か袂を分かつ
小樽にて死去、享年77
松前藩の武士だった
右から、近藤勇 土方歳三 永倉新八
雨に濡れた花々が、うれしそうに
向けてくれました
板橋宿で、政府軍により捕縛され
その後、土佐藩と薩摩藩との間で、近藤の処遇をめぐり対立が生じたが、
結局土佐藩が押し切り、4月25日、中仙道板橋宿近くの板橋刑場で
斬首された。
享年35(満33歳没)。首は京都の三条河原で梟首された。
その後の首の行方は不明である。
幕末の日本でいち早く近代化を推進した小栗上野介忠順は
、「徳川近代」を象徴する幕臣である。
その小栗が維新後、さしたる理由もなく新政府軍に斬首されたこと
を重ねてしまった
<ウイキペディアより>
京都見廻組が幕臣(旗本、御家人)で構成された正規組織であったのに対して、
新選組は浪士(町人、農民身分を含む)で構成された「会津藩預かり」という
非正規組織であった
明治時代は、新選組と敵対していた薩長出身者が政治の実権を握っていたこと、
また皇国史観の影響により、賊軍となった新選組を否定する風潮が強かった。
昭和3年(1928年)に『新選組始末記』(子母澤寛)、『新撰組史録』(平尾道雄)が
刊行されると、新選組は再評価され始めた。
昭和8年(1933年)、警視庁に創設された特別警備隊(現・警視庁機動隊)は、
「昭和の新選組」の通称で親しまれた。
太平洋戦争中には陸軍で編成された飛行第47戦隊
海軍で編成された第三四三海軍航空隊戦闘三〇一飛行隊
「新選組」と呼称されている。
戦後は、映画やテレビドラマで新選組が主役に扱われることも多くなり、
各隊士にもスポットが当てられるようになった。
昭和40年代に放送された『新選組血風録』、『燃えよ剣』
(司馬遼太郎原作、栗塚旭主演)は
新選組ブームを起こした。
初秋の彼岸花(曼珠沙華)を、見に来たので
探して歩きました
スズカケノキ
日本で街路樹として用いられるプラタナス(モミジバスズカケノキ)は、
本種とアメリカスズカケノキの雑種です
白い花が頂上付近に咲くのですが、
高すぎてよく見えません
針葉樹林 N0.29
咲はじめの萩です
彼岸花(曼珠沙華)
彼岸花は、園内を歩き回り、帰りの正門近くの
クルミ科林周辺に、あっちこっち 咲いていました
No.23
見にきている人の数は本当に少なかったです
小石川植物園は、東京大学大学院理学系研究科の
附属施設です
入園料がかかるためなのか、植物園の回りは住宅街のためか
それとも知名度が低いのかわかりませんが、
梅も桜も彼岸花も個人的には、都内有数の名所だと思うのですが、
訪れる人が少ないので、静かにのんびいりと観賞する人には、
うってつけのところです
研究施設なので、お酒は飲めません
クルミ科林周辺からさらに奥に足を運んでいくと
ミズカンナ周辺には、白い彼岸花が咲いていました
メタセコイア(アケボノスギ) No.23
樹高は生長すると高さ25-30 m、
写真に入りません
第三紀の地層から出る植物化石の研究において、
昭和16年(西暦1941年)に Metasequoia 属は化石属として発表されました。
ところが、昭和20年(西暦1947年)に、現生種が中国 四川省で発見されました。
小石川植物園のメタセコイヤ林は、現地で採集され、アメリカのメリル博士により
昭和22年(西暦1947年)に日本に贈られた種子に由来します
彼岸花(曼珠沙華)は、9月中ごろから、下旬に、園内を歩いていると
見られます
園内を歩いていると、出会った人は、数人ほどでした
あっちこっちで、ゆっくり、落ち着いて、見られました
帰りに、寄付として、季節紹介誌を、正門の自動販売機で
購入しました
「2019オリンピックデーラン板橋大会」9月15日(日)
に参加してきました
予報と違って、朝から快晴
ワンコ2との散歩を終えて、食事を与えて
トーストを食べて
朝、7時過ぎに家を出て
会場まで3Km歩きました
着くと、もう、並んでいました
受付を済ませて
「2019オリンピックデーランオリジナルTシャツ」
ゲットしました
来年のオリンピックに
これを着て、応援します
開会式会場へ向かいます
並木が窓に映っています
ドッグランの
坂を上がると
着きました
陸上競技場です
サッカーの練習しています
右のお子さんが
元アトランタオリンピック選手より
早かった!
アトランタでは、ブラジルに勝ちました!!!
マイアミの奇跡と、言われた
日本五輪代表は城のワントップ、
中田英寿と前園が後方からフォローする
3-6-1のフォーメーション
西野監督だったとおもいます
仕事さぼって、テレビ中継を見ていました
元バレーオリンピック選手
楽しそうに歓談しています
オリンピアン
記念写真
スポンサーサービスです
お子さん、ばっちり
決まっています!
フォームが素晴らしい!!
お似合いのご婦人
上から下まで
きまっています!
聖火ランナー登場
記念写真
左に板橋区区長、オリンピック組織委員理事、
そのとなりが、地元選出の下村衆議院議員
最初の頃のオリンピック・パラリンピックの
担当大臣でした
この度、返り咲いて
自民党選挙対策委員長に就任しました
点火式
第1ラジオ体操
いよいよ
ウオーキングがスタートします
私も、最後尾から参加しました
ウオーキング
城北中央公園を1周しました
途中から、挽回したが、
狭い道に阻まれトップには
なれなかった
2.5Km 30分もかかってしまった
が、みなさんといっしょに楽しかった
完走者に、ごほうび
美味しかった
久しぶりに
家から往復、帰りは寄り道して
10Kmほど、歩きました
猛暑の2か月あまり
歩いていなかった
これから
10月に向けて
ペースを上げていきます(笑)
鈴懸の径
2019 東京阿波おどり
東京高円寺阿波おどりが
半世紀を迎える今、
開催期間中の参加連
延べ160連
参加者延べ10000人
見物客100万人を動員
するに至り、
東京の夏を代表するイベント、
東日本最大の阿波おどりにまで
成長いたしました。
昨夜、家で、くつろいで飲みながら
テレビの生中継を見ていました
8月24日(土) 7時30分ごろ
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30年ほど前、職場の有志が蓮を組んで
参加していました
高円寺は、ときわ台から環七をバスで
直通です
高円寺の阿波踊り、阿佐ヶ谷の七夕、
なんどか、見物に行きました
先日の阿佐ヶ谷の七夕につづいて
再投稿しました
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Yahoo!ブログ 思い出の記事から
高円寺の阿波踊り その2
2017/8/28(月) 午前 5:57
“純情商店街”の名前は、当商店街出身である作家のねじめ正一さんが、
平成元年に第101回直木賞を受賞した作品である「高円寺純情商店街」の
本のタイトルを受賞直後から高円寺銀座商店会の愛称として使わせていただき、
今ではすっかり定着しました。
商店街のそれぞれのお店は、“純情”というモチーフを大切にして、
お客様が買い物をしやすい雰囲気づくりに努力しています
私こと いまだに ”純情”そのもです
では、ごゆっくり
ご覧ください
踊り子さんの写真、他意はございません
ひとえに、わたくしことです
猛暑の夜は
星座を見て
涼みましょう
お部屋の照明を
暗くすると
そこは、銀河です
「再生」をクリックして
「全画面」モードで
見てください
先月、猛暑の始めの晴れた日に
なつかしい佃・月島を歩きました
30年前、 直木賞『佃島ふたり書房』を読んで
歩きました
作者 出久根達郎さん 初めて知りました
茨城県行方郡北浦町(現:行方市)生まれ。北浦中学校卒。
東京・月島の古書店に勤務。昭和48年/1973年独立、杉並区で古書店「芳雅堂」を開く。
第108回直木賞(平成4年/1992年下期)『佃島ふたり書房』
そういえば、あの当時、東京オリンピックの前、
たくさんの中学校卒業の方々が、関東甲信越、東北から
集団就職列車で、上野駅に着きました
佃の渡しが消えた東京五輪の年、男は佃島の古書店「ふたり書房」を立ち去った。
大逆事件の明治末から高度成長で大変貌をとげる昭和39年まで移ろいゆく東京の
下町を背景に庶民の哀歓を描く感動長篇。
生年月日がまったく同じ2人の少年が奉公先で知り合い、男の友情を育んでいく。
第108回直木賞受賞作品。(講談社文庫)
選考委員のお一人 五木寛之
男60歳
「余裕の受賞という感じで今回の選考会は終った。」
「なによりも文章が練れているというか、こなれた筆である。」
「この作品のなによりの成功は、物語りの舞台に佃島という場所を選んだことだ。
(引用者中略)このあたりには、まだまだ沢山の物語りが埋まっていそうである。」
作者は、その後、文壇の懇親会に出席したが、
著名なたくさんの作家と、違って、知り合いもなく、
寂しく、隅で、見ていました、と何かの対談で聞きました
その後、同氏の何冊か、買って読んだが、覚えていません
そして、突然、歩いて見たくなりました
前回の代官山のように、30年を越すと
すっかり、変わってしまい、
昔の思い出を探しても、
分らなくなりました
有楽町線 月島駅を出ました
交差点、真っ直ぐ先が
月島もんじゃ通りです
各地に大きな傷跡を残した太平洋戦争だが、
幸運にもこの地域は直接的な戦災を免れたため、
戦後いち早く復興しました
東京23区のほぼ中央に位置し、
明治中期約100年ほど前に佃島から埋め立てによって
開発された地域が月島です
昔から水辺や運河に囲まれて
水と親しんできました
まだ、早く、
お店が閉まっています
ネットより引用 大正から昭和初期にかけて月島地区は最初の全盛期を迎える。 人口はさらに増え続け、区画整理された路地には長屋が立ち並び、 商店街も一層の賑わいをみせ、街の中心的役割を果たしてきた。 現在の月島の古い町並みは太平洋戦争の戦災を免れたため、 この当時の町並みが色濃く残っているためである。 商店街はもちろん、路地や空き地といった所で、 めんこ、ビー玉、ベーごま、かくれんぼ、等を楽しんでいて、 なかでも忘れてはならないのは「駄菓子屋」の存在だ。 「駄菓子屋」には大きな鉄板があり、遊んでお腹の減った子ども達は 僅かなお小遣いで「文字焼き(もんじゃ)」を作って食べていた。 | ||
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帰り、この店に寄ります
昔、ここから、仕事で、新日鉄の事務所に行くとき
勝どきに歩きました
当時、まだ、都営大江戸線が、なかった
歩いていると、十返舎一九のお墓がありました
「此の世をば どりゃお暇(いとま)に 線香の
煙と共に はい左様なら」
この碑文を読んで、
なんか、救われる思いがしました。。。
勝鬨橋は、隅田川のもっとも下流に架かる橋です
近くには、かって、東京の台所をあずかる築地市場、
著名人の告別式で登場する築地本願寺、
もんじゃ焼きの月島、
晴海通りを反対側に足を延ばせば銀座4丁目も
1km圏内の下町に位置します
そして、なんと、築地市場の月島の対岸が、
豊洲市場です。
勝鬨橋は、明治の時代より幾度となく架設計画がありました
1905(明治38年)1月18日に日露戦争における旅順陥落祝勝記念として
有志により築地と月島を結ぶ「勝鬨の渡し」が設置されました
この渡しに由来して「勝鬨橋」と命名されました
ネットより引用
これから、回ります
どこを歩いても、海抜の標識に目が止まります
東京メトロの駅 地下通路入り口の標識
品川、旧東海道を歩いて、0m地帯の標識
名古屋 国道1号線、金魚の養殖の有名な弥富市0mの標識
・・・
などなど
相生橋
佃・月島は、高層ビルが多い
昔の佃・月島
隅田川
続きます